思い出
 
やより
リハビリ日記
 
写真集
京都の家
水彩画

宮本筆子

私たちの母、宮本筆子が92歳で亡くなりました。母はハピネスという茅ヶ崎にある特別擁護老人ホームにお世話になっていましたが体調を崩し入院していました。 さほど深刻な状況ではないとのことで、一週間ほどで退院するとの事でした。でも病院から連絡を受けて千葉の自宅から病院に向かう途中で母が亡くなったとの連絡がありました。

ここ2年ほどは寝たきりだった母なのでいつかなくなる時が来るとは覚悟していましたが本当に突然の事でした。母は私たちが行っても起き上がる事はありませんでしたが話しかけたり、聖書を読んだり、賛美歌を歌ったりする、祈ったりすると目を開けたりタマには一言いったりすることもありました。何も出来ない、何も言えない母でしたがそこに居るだけで存在感がありました。居てくれるだけで良かったのです。

でも命あるものは全ていつかは死んでいきます。母の一生も楽しい事、苦しい事、悲しい事がありました、でもいつも明るく私たちを守り、育ててくれて感謝しています。そして最後に母にお返しのお世話を少しは出来たのではないかと思います。最後のお通夜やお葬式までも母の居た逹さんのアパートで行う事ができて母も喜んでいるでしょう、本当に良かったと思います。

本当に長い間母の世話をして下さった弟の逹さんと弘美さん夫婦に心から感謝します。 お葬式は長年お世話になっていた逹さんのアパートで行われました。逹さんと弘美さんそしてメイさんが手作りで葬儀の飾り付けや筆子お母さんの描いた絵のディスプレイを綺麗にしてくれました。 司式はやよりの父である藤尾正人師によって親近者のみの参列により行われました。母がやよりの祖父である藤尾英二郎師により洗礼を授かったこと、また父の伝治も亡くなった時、姉が通っていた宇治のカトリック教会により洗礼を授かっていた事はとても嬉しい事です。お葬式が皆さんのお陰で、神様の導きにより無事終える事ができ嬉しく思います。

ありがとうございました。

 

 

母の思い出

宮本努

私たちの家は京都の南にある宇治市の木幡にありました。昔幼いころ、源の義経が京都から逃れるとき家の前の木幡街道を通って行ったと教えられていました。

私は、母によると小さい頃はとても気が強く母をいろんなことで困らせたようです。とくに幼稚園にいく事が嫌いで、母はいった将来学校にいくようになったらどうなる事かと心配したようです。でもどういうわけか小学校に入ったらなにも言わずに学校にいくようになったそうです。私にも理由はよく分かりませんが人間は年と共に性格も気質も変わるという事でしょうか。

私が小学生の時だったでしょうか、母の事でとても印象に残った事がありました。その当時は戦争が終わってまだ米軍兵士がいろんなところにいた頃でした。その当時、子供たちはアメリカの兵士がいるとチューインガムとかチョコレートとかいろんな物をねだっている光景が日常茶飯事でした。そんな時、母とわたしたちが、確か京都駅で汽車が出発するのを待っていたときだと思います。その時なぜか、母がわたしがどこかで買ったヤドカリを、そのとき子供たちに物を上げていた兵士に渡してきなさいと言ったのでした。私は言われた通りに子供たちをかき分けて兵士にそれを渡しました。この兵隊さんもヤドカリを渡されてびっくりしたと思います。そのあとで私たちにアイスクリームをもってきてくれたのを覚えています。でもこの時に私は母にとても大切な何かを教えられたというかもらったという気がします。

子供を育てるという事は教育、しつけいろいろあると思いますが親の心というか信念というか何か自分の体に中に流れているある部分を伝えることが大切なのではないかと思います。私も子供を持って、育ててみてそのように私の中にあるもの流れるもの(もちろんこれは私からくるものではなく神様からくるものだと思いますが)の一部を子供がみて受け取ってくれたらなあという願いを覚えさせられます。 家族は全部で5人一時は父のやっていた会社がうまくいっていたときもあり運転手とお手伝いさんがいたときもありました。父は東大の法学部の出身でとても見栄っ張りの強い人でした、事業がうまくいかなくなっても時々出入りしていた洋服屋さんや靴屋さんに背広や靴を作らせたり、毎日クリーニングで糊の効いたワイシャツを着て、おしゃれというか身だしなみを整えて出かけていきました。

私の家は京阪電鉄という電車の宇治線が走っている近くにあり夜になると電車の音が良く聞こえていたのを思い出します。電車が通ると父がそのうち駅から帰ってくるのではないかと思い、わくわくとして人が家の前を靴音を鳴らしながら通っていくのを聞き耳を立てて父の帰りを待っていたのを思い出します。父はよくお土産を買ってきました、その当時ロンドン焼き(どら焼きの小さいので中に白いあんこが入っていたと思います)というのがありそれをよく買ってきてくれた事が印象に残っています。買ってこなかったときにはブーブーいったのを良く覚えています。

今の子供たちはいつも欲しいものが手に入るので特にお土産が必要ないと思ますが、たまには私もお土産を買って帰るべきだったのではないかと思ったりもします。 母はこのような父でしたから経済的に苦労をした事が一番印象に残っているようで父との思い出はどちらかというと子供の私たちよりは良くはなかったようです。

でも母の性格は明るいほうで物事に対して楽観的な見方をする方です。冗談をいったり、ふざけた事をしたりして時々父をからかっていた事を思い出します。こんな事を言うのは少し照れくさいのですが、よく男の人は母親に似た人を奥さんに求めると言われます。私も母親が性格的に明るかったところが小さいときから好きであったようです、そして私の妻も性格は明るいほうでそんなところに引かれたのだと思います。

母のことでいまだに思い出すことは母を苛めたことと言うか困らせた時のことです、その当時母に言わせると私は大変悪かったそうです。ある日どういうことでか理由は忘れてしまいましたが、母のことを私がとても怒って家に入らせないように私が家の玄関で下駄を手に持っていて、母が入ってこようとすると投げつけたことがありました。この光景が私の脳裏に今でもはっきりと残っています。

今考えてみるとそんなに母のことを怒った自分がはずかしい思いです。 でも私は時には暗い雰囲気になる家の中を明るくする母が好きでした。 家庭の雰囲気はどっちかというと母の性格が支配的だったのかもしれませんが明るかったような気がします。といっても父の会社がうまくいかなかった時は借金取りが電話をかけて来たりして母は大変だったようです。でも父は太っ腹というか無神経というかあまり気にする事もなうように子供の私には見えましたが本当はつらかったのではないかと思います。

そんな時があったにしても概して言えば夫婦仲は良かったのではないかと今でも思っています。ある時家に泥棒が入ったときがありました。でも泥棒が入ったことは警察から連絡があるまで父も母も知らずお金が無くなっていた事も気のせいとでも思っていたようです。というわけで我が家は私が高校を卒業するまでは何とかいろいろとあったにせよ平穏な日々が続いていたと言えるでしょう。

私の父は三高・東大というエリートコースをたどりそれ相当の地位までいったように聞いていますが詳しくは知りません。でも太平洋戦争で日本が戦争に負けてから公職追放というのがありそれで東京からどういう理由かこれも知りませんが京都に引っ越してきたようです。父は特に趣味はありませんでしたが碁が好きでした、時々大勢の碁の仲間が家に来て碁会というものをやっていました。特に碁を打つ以外はなにもしないのですが、一日中大勢の人と碁をうって父はそれなりに楽しんでいたようです。

またご存知の方もあるかもしれませんが旧制高校の同窓会が時々当時はありそれによく行っていました。いい年をしたおじさん達が大勢で寮歌を歌うのです。 父はよくお風呂に入ると三高寮歌の”くれないもゆる”とかを大きな声で歌っていました。また京都にいたせいかも知れませんが茶歌舞伎とうものに時々行っていました。これはみんなで抹茶をたててそれを呑んでどのお茶かをあてるとうなかなか今から考えてみると風流な遊びです。

私の子供はお父さんには友達がいないとよく私の事をつまらない人のように言いますが考えてみると私の父にもあまり友達はいなかったようね気がします。でも父には三高時代からの仲のよい友達がいてよくやはりいっしょに碁をやっていました。でもある時なんかの理由でおそらく事業がうまく行かなくなったときの問題からだと思いますが突然来なくなってしまい父が死ぬまで結局は交信が途絶えてしまいました。

私の娘、まなが小さい頃、伝治おじいさんに会いたいといっていましたが、父も孫を一人も見る事無く亡くなってしまったので天国では是非会って欲しいと思います。 父には金盛という父親がおりました、私にとってはおじいさんに当たる人ですがあまりおじいちゃんと孫というような関係ではなく時々知らないおじいさんが難しい話(お金の事)をしにくるというような印象しかありませんでした。

でもある時このおじいさんが当時大流行だったフラフープという大きなプラスティックの輪のようなおもちゃを持ってきてくれたときは私たち子供全員が大喜びした事を覚えています。それからおじいさんが来るといつも特別にバターを買って来てトーストを食べていたのを憶えています。当時のマーガリンはとても固くてまずく、美味しいかったバターの味が忘れられません。

父は私にとってどういう存在だったかというと一言ではなかなか言えませんが尊敬できる部分とこうはなりたくないという二つの部分を持っていたと思います。人柄的にはなかなかいい父親で時々は私とキャッチボールをしたりしてくれましたし戦前のひとにしては母にもまあまあやさしくしていたのではないかと思います。でも金銭的な感覚はあまりよくなく従って事業も良いときはいいのですが駄目なときのほうが多かったようです。そのときの辛さは私たち子供より親のほうがよほどつらい事だと思いますが今から思えば辛かったことも良い思い出ですし私のためにもなったような気がします。ある時父の事業がどうしようもなくなって本当に父が困った顔をしていたとき突然父が私を抱き寄せ膝の上で体を揺すってくれた事をはっきりと覚えています。

父は私が会社に入ったとき亡くなりましたが最後は過労による肝硬変で亡くなりました。私はその時沖電気に勤めていて群馬県の高崎に住んでいました。死ぬ半年前ほどから容態が悪くなり入院していましたが母がずっとかかりっきりで大変だったようです。私に父の容態がおかしいと電話が入ったのは亡くなる一週間前の事でした、寮のおじさんに相談したらそれはやっぱり直ぐに行ったほうが良いと言われ京都の家に帰りました。

そしたら一週間くらいした時急に容態が悪くなり私たち家族全員がいる前で亡くなりました。私が駆けつけたときはもう意識がはっきりしていなくて全然会話も出来ないような状態でした。でもある晩家に帰ろうと思ってあまり表情もない父に挨拶をしたら、どういうわけかその時だけニコッと笑顔を見せてくれました。 実は私の父は事業の失敗から借金を残していて私の給料も一部当時差し押さえられていました。ですから父の事もあまりよく思っていなかったのですがその笑顔を見たときにすべて私のうちにあったモヤモヤしたものが消えてなくなり、ああ本当にこの父親をもててよかったなあという感情が胸に一杯になりました。

ちょっと比較は出来ないかもしれませんがイエス様の救いというものもこのような一瞬の出会いというか一瞬の間にすべてが和解され罪の世界から恵みの世界へと移っていくものなのかもしれません。

私の家は京都の南にある宇治市にありました。住所は京都府宇治市木幡内畑八番地、電話は木幡の45番。その当時は自動的に電話は繋がるものではなく、大きな壁に取り付けてある電話機の横にあるハンドルを回して交換手を呼び出しで繋いでもらうのです。近くだとすぐに繋がるのですが遠く、特に東京なんかだとものすごく時間がかかるのです、時には半日くらいつながらない時がありました。

家は大きく部屋が17以上もある古い家でした。 入ったところが玄関、直ぐに応接間があり、その横にはお手伝いさんが居る部屋(というか居たことがある部屋)がありました。それからお座敷、居間、鏡の間、神棚がある部屋、茶室、ガラス天井の部屋、などがありなかなかの家でしたが何せ手入れが行き届いていないので雨が降ったりすると雨漏りがあちこちからして大変な騒ぎでした。 いつも友達がきて家や裏の工場で遊びました。裏の工場までは石のタイルで出来た通路がありローラースケートをやりました。

家の廊下は蔵の前が広くなっていてそこでテーブルを並べてピンポンをしました。 家は古く、あちこちで雨漏りがしていましたが家自体は頑丈に出来ていていました。第二室戸台風という大きな台風が来た時にも、他の家は風で揺れたそうですがそのような事はありませんでした。毎年秋になると台風が来て近くの宇治川が氾濫し、裏の畑の所まで水浸しになることがよくありました。私たちも台風が来たときは風で、長い縁側のガラス戸が飛ばされるのではないかと心配してガラス戸を全員で押さえていたのを覚えています。

後で聞いた話ですが隣は私の家の瓦が縁側の窓をぶち壊して飛んできて大変だったそうです。我が家は結局被害も殆ど無かったのですが近所の家の屋根全体がまるで誰かが持ち上げて横に置いたように吹き飛ばされていたのを見ました。この家はいつも新しくていい家だなと思ってみていたのですが瓦ではなく軽い木と金属の屋根だったので重くなかったので飛ばされたのだと思います。子供ながらに家なんて案外見かけが良く見えても駄目なんだなと思いました。 広い家なのでお客さんがきてお座敷から遠いトイレに行って帰るときに迷って居間の方に来てしまう事もありました。

掃除は大変で毎週日曜日には廊下の雑巾がけをするのが私たちの役目でした。 家の裏には畑がありました。父と母がジャガイモやサツマイモを作っていましたので私たちも時々芋掘りをして手伝いました。 一時は家計が大変だったので学生用の下宿をしていました、それも貸せる部屋すべてを貸していたので私たち一家全員が居間に住んでいたことがしばらくありました。賄いもやっていたので食事時は一家全員で食事の手伝いをしたものでした。

私の小さい頃は水道が無く風呂を沸かすのが大変な作業でした。水を井戸から汲んで風呂桶に運ぶのです。ポンプも勿論手動式で誰かがポンプを動かし他の人がバケツで水を運ぶのです。今ではとても考えられないことですが当時の私たちの家の回りでは当たり前のことで家によっては風呂も無い家があったくらいです。さて水が一杯になったら今度は木を燃やしてお湯を沸かすのです。新聞紙にはじめ火をつけてそれから木を燃やすのですが冬ともなると寒い家の外で火を焚かなくてはならず大変な作業でした。

この当時の楽しみと言えば紙芝居とラジオでした。紙芝居は一週間に一回、水飴とか子供の好きそうなお菓子を売ったり紙芝居を見せてくれるのですがとても嬉しかったのを覚えています。ラジオはNHKの子供用のドラマ笛吹き童子とか鞍馬天狗、怪人二十面相など時間になるとラジオの前に座って聞いたものです。 でもこの頃はだんだんと日本の社会全体がいろんな便利なものを次々と取り入れていった時代で新しく便利なものが家に来たりするととても興奮したものでした。水道が引かれた時、氷で冷やす冷蔵庫が来たとき、ステレオが入ったとき、テレビが始めて家庭で見られたときなどとても嬉しかったのを思い出します。

 

 

筆子さんの思い出

宮本 やより

まなが産まれるときは、筆子さんがきてくださいました。まことの時は、わたしの母がきてくれました)。つとむさんは、1日仕事で ずっといないので、まことの世話は大変だったのではないかと思います。おかげで安心して、産まれたばかりのまなと病院でゆっくり時間を過ごすことができました。しかし、家に戻ると意外なことで、もめることになりました。まことはそのころ、くつひもでしっかりと足を固定するくつをはいていました。筆子さんは、その靴が気にいらず、こんな小さな子にこの靴は重すぎるし、はかせるのが大変。と言います。たしかに、日本では、もっと軽くマジックテープで簡単なくつのほうがよくつかわれているのかもしれない。でもアメリカでは足首をしっかり固定させる靴をはかせるのが、小児科の先生のすすめではかせていました。どんなに説明しても納得してくれず、靴をはかせるたびに、重たい靴をはかされてまことがかわいそうだとぼやき、困りました。しばらく靴のことでもめましたが、やっと あきらめてくれたようでした。靴をはかせるのは、私がするようにして落ち着いたのでした。これは、1983年ころのことでした。 筆子お母さんが達さんの茅ヶ崎の家にお世話になっているとき、時々遊びに行った時、冷蔵庫が、パンパンにあふれそうになっていたので、少し整理しようと思い、中身をだしてみると、とっくに賞味期限のきれたものがあり、どうしよう?と思ったときに、 ”ほうらんといてください”。今夜ちょうど食べようと思っていたとこや。昔は賞味期限なんかなかったんよ。ハムやウナギなどひとつではなくて、それぞれ3つぐらいずつ、あった。そんなに食べたかったのなら大事にとっておかないで、すぐに食べたらよかったのにね。 時はあっという間に過ぎ2007年のころ、わたしが2006年に大病して倒れてしまい、しばらく、茅ヶ崎まで行けなかったころのことでした。やっと体力もついてきて、89歳の誕生日のお祝いにまこととまなとみんなで行ったときのことです。「おかあさん、 ご心配かけてごめんなさい。元気になってきたので、安心してね」 といった時に[奥さんがこんなことになってしまい、つとむさんには、もっと元気で若いきれいなお嫁さんをさがさないとねえ?」と言うと[そんなのいやや!やよりさんじゃなきゃいやや!]と、とても悲しい顔をするのです。全然素直でないこんな私のような嫁でもそなふうに思ってくれてることにじ~んときました。